mail

  僕が中学生だった頃は「mail」という言葉は、試験の為に覚えておく英単語の一つに過ぎなかった。

  数日前から僕は通勤方法を自転車に戻していた。今日も自転車で出社するはずだった。
  朝4時半に起きてコーヒーを淹れている間にカレンダーを確認して思い直した。今日は電車で行こう。

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  僕が家を出るとき、娘は洗面所で歯を磨いていた。いつもと同じような朝だった。玄関のドアを開けると、ドアのきしむ音で娘が気づいて洗面所から半身を出して、「いってらっしゃい」と歯ブラシをくわえながら僕に手を振った。いつもと同じようないつもの光景だった。僕は玄関で、いつものように振り返り、いつものように娘に「頑張ってね」と言って家を出た。

  電車の中、僕は時計を気にしていた。
  乗り換えの駅に来て、次の渋谷行きの急行を待つ間、ポケットから携帯を取り出した。渋谷行きの急行は7時25分に到着する。僕はポケットから取り出した携帯のメーラーを起動すると、「ガンガレ」と打ち込んだ。チカラコブの絵文字も添えて、電車が駅に到着すると同時に、そのメールを普段は滅多にメールを送らない娘に送信した。娘は7時半に家を出る。携帯をチェック出来るギリギリの時間だろう。

  僕が中学生だった頃は「mail」という言葉は、試験の為に覚えておく英単語の一つに過ぎなかった。でも今は違う。「maii」とはコミュニケーション・ツールとしては誰もが知っている最も身近な存在の一つである。

  渋谷行きの電車のドアが締まり、モーター音をたてて走り出したとき、僕の携帯が震えた。
  娘からの「アリガトウ」の返信だった。ハートの絵文字が添えられていた。

  紙媒体でも電子媒体でも結局「mail」は人類のコミュニケーション・ツールの最たるものであると僕は思う。変わったのは「mail」が相手に届くタイム・ラグが非常に短くなったことぐらいだろう。

  渋谷行きの電車は加速をして、真っ暗な地下のトンネルを突き進んでいく。
  携帯の電波は届かなくなった。
  電波が届かなくなる直前に届いた娘のたった5文字のメールを僕は読み直した。

  読み直して、僕は携帯をポケットにしまった。
  今日は娘の、人生初めての入試の日だった。